明日の照り焼き

日々のこととか趣味のこととか

穏やかに過ごしたい

いつも心が穏やかな状態で過ごしたい。何事にも波風を立て過ぎずに、落ち着いて。別に感情を削ぎ落としたいということではない。感じるべき、というのも言葉がしっくりこないけれども、何かを受け止めてそれに対する自分のリアクションは大切にしたいとも思う。波風を立て過ぎずに、というのが僕の中でポイントだ。

今も昔も、僕は些細なことも感じ過ぎ、気にしすぎる傾向にある。そのせいで接する人の中にあるかもわからない悪意を見出したり、存在しない敵を作ったりして、そしてそれに対して怯えながら日々を過ごしていた。そのくせ、人の善意には多分鈍い、或いは疑っている。人が何かを善意でやってくれてもその裏にある自分へのない悪意を勝手に作り出してしまう。人を信用できていないんだ。感情や人の行動に対して適切な言葉かはわからないけれど、理屈でそれは善意であったり少なくとも悪意を含まないものだと分かっていても、心が勝手に相手の中に悪意を作り出してしまうというところだ。

今ここで文章にしておくことで、自分に改めて認識させたい。敵は目の前の人じゃなくて、その悪意は自分の中で勝手に生まれている。人に対する認識は自分を写す鏡だと思う。僕が、僕自信に常にある程度の悪意を持っているから人からも悪意を持たれていると考えてしまっているだけだ、多分。

子供の頃の僕は、自分に甘い、とよく親に言われていた。自分の中で充分だと思えるところが、親の期待より低かったのかもしれないのだけど、ある程度のところで自分にOKを出していた。でも僕のOKと世界の基準の齟齬が大きくなった頃に、自分への甘さを強烈に実感したのか、私か僕はかなり自分に対して自罰的になっていった。甘いところが残ったままだったから、自分を甘やかして満足いくところまでいかず、自分を猛烈にバッシングする。けれども甘い根本部分の解決はできていない。だからまた失敗して自分を罰する。これを繰り返すうちに些細な自分の行動にも自罰的になってしまった。

正直なところ、どうなれば問題がないのか、どうなればいいのか、がもうわからない。多分みんなそうだと思う、思いたい。ひとまず僕は今日も自分を律して生きていこうと思う。自分を信じられないけれど、自分を罰し過ぎずに、でも甘やかしすぎもせずに日々を過ごそう。自分と世界に対して穏やかな人間であろう。